うつ病の治療 プラセボ “一般的健康行動’の効果 2008/10/16

うつ病についての最近の論議

1.“うつ病”の“バブル”
うつ病に関するエビデンスの数はすでにたくさ
んある.DSMによってうつ病をわかりやすく定義
することが可能になり,うつ病の診断は医師以外
でも可能になった.診断が決まることによって根
拠に基づく医療(evidence-based medicine:EBM)
が可能になった.精神薬理の世界ではセロトニン
仮説に基づいた抗うつ薬がデザインされて,新規
抗うつ薬が発売された.精神療法の世界ではうつ
病に関する認知モデルが提唱されて,それに合わ
せた認知療法が生まれた.現在はうつ病の病因に
関してセロトニン仮説と認知モデルが当然のもの
と受け止められ,それらに基づく治療法がプラセ
ボ対照の無作為割付け比較臨床試験(randomized
controlled trial:RCT)によってエビデンスという
裏づけを得た.RCTによって有効性が示された治
療法は数え切れない.無効な治療も同様に明らか
になり,エビデンスに基づいた治療が行えるよう
になった.それらをまとめた治療ガイドラインや
アルゴリズムも数多い.これらをまとめるとつぎ
のようになる.
うつ病は増加しており,受診しないまま一人悩
む患者が多い.一般医療機関を受診していても見
すごされる患者が多いが,軽いうつ病でも放置し
てはならない.うつ病は自殺の原因である.ぜひ
とも早期診断,早期治療すべきである.社会全体
や職場も積極的にうつ病を認識して,うつと疑わ
れる人を受診させるべきである.医療機関では
SSRI,SNRI(選択的セロトニン・ノルアドレナリ
ン再取込み阻害薬)をまず処方すべきである.可能
ならば認知行動療法も行うべきである.一方,日
本で行われている実際のうつ病の治療の現状は,
治療ガイドラインからかけ離れている.スルピリ
ドが第一選択薬であり,SSRIはよく処方されてい
るが量が不足し,多剤併用であり,睡眠導入剤・
抗不安薬が必要以上に使われている.認知行動療
法を行っている精神科医療機関はごくわずかであ
る.
日本うつ病学会という,うつ病だけを取り上げ
た学会が2004年に発足した.学会のねらいは,会
則によれば「二.うつ病臨床の発展・充実に寄与
するとともに,一般社会にうつ病に関する情報を
提供することを目的とする」.本特集のタイトルは
『うつ病のすべて』である.うつ病のすべてはすで
にわかり,これからの仕事は啓発をすることのよ
うである.
さて,うつ病とその治療はもう完全にわかった
のであろうか.日本で使える抗うつ薬だけでも10
種類以上ある.認知行動療法のアプローチの数は
それ以上である.これだけたくさんの治療法があ
るのに,まだ治療法が出てくるということは,ど
の治療法も決定打ではなく,五十歩百歩というこ
とである.それでも,このようにエビデンスも患
者も治療法も増え続ける状態は“バブル”とよぷ
にふさわしい.

2.批判と論議
この数年間はこの“バブル”を批判的に吟味す
る研究者が現れてきた1).抗うつ薬の開発に携わっ
ていた精神薬理学者が精神薬理学と薬品会社を批
判する本も現れた2).うつ病の病因に関するセロト
ニン仮説は過去のものになった.抗うつ薬は不安
障害にも等しく効果を示すことがわかると,それ
までのようにうつ病と神経症を薬の反応で分ける
という考え方ができなくなった.SSRIの効果や自
殺のリスクについて都合の悪いデータを薬品会社
が隠していたことが明るみに出たことが疑念を引
き起こしている.18歳以下の児童思春期のうつ病
に対するparoxetine試験において,paroxetineが
プラセボに勝てなかったばかりか,自殺のリスク
がparoxetine投与群で高いことが明るみに出たの
である.この後,SSRI・SNRIのエピデンスにつ
いて疑念がもたれるようになった.このなかには
認知行動療法に対する批判もある3).うつ病の患者
に認知の誤りがあるのは確かであるが,それはう
つ病の原因というより症状の一部であるとわかっ
た.また,認知の誤りを修正することに特別な治
療上の意義はない,とわかってきたのである.
2004年にイギリスNHSが出版したNICEガイ
ドラインは,公的なガイドラインとしてははじめ
て経過観察(watchful waiting)を軽症うつ病に対す
る最初のアプローチとして推奨している.軽症う
つ病に対しては薬物や特別な精神療法は不要で,
1~2週間ごとの受診と経過観察で十分であると
しているのである4).
エピデンス自体には誤りはないとしても,エピ
デンスが出てくる過程の検討や結果の再解釈に
よって,いままでの“常識”には都合の悪い知見
がつぎつぎ出てきたのである.この四半世紀のエ
ビデンスを批判的に吟味し,実地の医療において
どのように薬物療法と精神療法を行えばよいのか
を検討しよう.

3.新規抗うつ薬は効くのか
数年前から新規抗うつ薬の治験を薬
品会社から受託して行っている.プラセボ対照二
重盲検RCTが最近では一般的になった.新規抗う
つ薬がプラセボよりも効くかどうかを
データでみてみることにする.
データは2種の,欧米ではすでに上市されてい
る抗うつ薬に関するものである.プラセボにはご
く低容量の偽プラセボも含まれている.患者は
20~64歳の外来患者で,診断はすべて単極性うつ
病であり,試験開始時点でのHAM-D17項目のス
コアが18点以上である.投与期間は6~8週で,
この間,うつ病に効果があると思われる向精神薬
の併用は禁じられている.治験開始後に不眠や不
安,体調不良などの訴えがあっても薬の追加や変
更はできない.評価はHAM-D17項目で行われ
た.6~8週後のHAM-Dのスコアが開始時より
65%以上低下したものを“著明改善”,50%以上改
善したものを“かなり改善”,35%以上改善したも
のを“やや改善”,それ以下を“不変以下”とし
た.HAM-Dスコアの減少度の平均(95%信頼区
間)は,実薬群は63%(47~78%),プラセポ群は
72%(2~141%)であった.
比較のために治験以外のデータを示す.2003年
度に新患として受診した20~64歳の外来患者の
なかで主病名がうつ病などである患者35人を対
象とした.このうち25人が6ヵ月後も受診して
いた22人について,6ヵ月後に主治医が評価した
全般改善尺度が得られた.
これはいままで一般に信じられていたことと相
反するデータである.プラセボを投与された4人
がもっともよく,一般治療はもっとも悪い.一般
治療群は薬剤の選択も追加も増量も,自由に患者
に合わせて行うことができる.使われている薬剤
はすでに規制当局によって承認された抗うつ薬な
どである.医師と患者が自由に治療すると結果が
よくないのである.さらに付け加えれば,一般治
療群は6ヵ月後のデータである.
プラセボ群の人数が少ないこと,一般治療群の
診断や評価が標準化されていないことなどの限界
がある.しかし,一般治療での実感ではプラセボが
実薬に勝つことが珍しくないことを考えると,こ
の結果には大きな間違いはないと思われる.

4.CBTは効くのか
認知行動療法にもプラセボ反応がある.NIMH
による共同研究5)がうつ病に対する認知療法の有
効性を示している.しかし,この後の研究では,
対照群に対する治療の条件を変えていくと認知療
法の優位性が消えていくことが知られている.精
神療法どうしの効果を比較するための大規模な
RCTがいくつか行われている6)が,これらの結果
は総じて相互に差がないことが知られている(「サ
イドメモ1」参照).Holmes3)は,①認知行動療法
の優位性はみかけ倒しのところがある,②精神療
法は成長発達の文脈で考えるぺきであり,“障害”
の除去だけを目的にしてはならない,③精神療法
の研究は特定の“ブランドネーム”治療法にこだ
わることをやめて,さまざまな治療に共通する要
素や有効成分,特定の治療スキル,そして精神療
法以外の方法との統合に力を注ぐべきである,と
している.行動療法の研究者もこのことを認識し
ており,うつ病に対するCBTの解体研究(dismantling study)
が行われている.その結果,現在うつ
病に対するCBTの有効成分と考えられているも
のが“行動活性化(behavioral activation,「サイド
メモ2」参照)”である.

サイドメモ1
ドードー鳥の判定
『みんな優勝! 全員が一等賞!』
これは「不思議の国のアリス」のなかの物語をとっ
た,治療法に関するエピデンスの評価に対する警句で
ある.薬物療法を含むさまざまな治療法は,無治療や
単純な支持的精神療法よりも効果が高い.一方,こう
した効果のある治療どうしを比較すると,ほとんどの
場合.差がつかない.どれにも効果がある.治療に成
功し自己愛が膨らみそうなとき,つぎのように考える
とよい.
「私が患者に対して行った治療の成果のいくつかは
時間がたてば自然に起こったことである.あるいは素
人にもできることである.また,いくつかは私の経験
と努力と鍛錬の賜物であり,他人にはまねができない,
さらに,患者の問題のいくつかは,私にも他人にも,
またいくら努力したとしても変えられないであろう.
そして,これら3つの区別はいまの私にはわからない.
つまり結果がすぱらしかったとしても私のしたことが
凄いのかどうかはいまの私にはわからないのだ.この
曖昧さを受け入れる心の落ち着きをもち,そして自分
のやり方を実証的な経験に応じて誠実に変えていく勇
気をもつこと,この2つができれば私はたいしたもの
だ」.

サイドメモ2
行動活性化
(behavioral aclivation)
BTの第一世代のときからあるうつ病に対するアプ
ローチである.Lewinsohn7)らはうつ病が持続する理由
に着目し,それは快適な感覚をもたらす出来事や振る
舞い,考え(快事象)が減少し,不快な事象が増加する
ことであると考えた.具体的には,快行動計画法など
を使う.患者に快事象の数を数えるようにさせ,快事
象につながる患者自身による具体的な行動を増加させ
るようにするものである.疲労や抑うつを感じること
を避けて寝てばかりいる患者に対して目的指向の行動
を増やすようにする.
一般的に快事象のなかによく含まれるものには,散
歩やペットの世話,安心できる知り合いとの会話.頭
を使わない仕事や作業,本人にとってプラスと思える
言葉を考えること,などがある.うつ気分が多少でも
よくなるということ自体が快事象のひとつであるか
ら,それにつながるような受診やカウンセリングも同
様に強められる.なにが快事象であるかは患者の状態
によって決まる.他人からの一方的な励ましや賞賛は,
うつ病の患者にとっては快事象ではない.
うつ病に対するBTとしては第二世代の隆盛ととも
に忘れられていた.Jacobsonら8〕はうつ病の認知モデ
ルを検証するために,うつ病の患者に対してBeck 9)の
認知療法の治療パッケージから認知修正法を除いた治
療パッケージをつくった.彼らは認知療法と認知修正
抜きの認知療法の間でRCTを行い,治療効果は双方と
も同等であることを確かめ,認知療法パッケージの有
効成分は’行動活性化’であるとした.これによって
行動活性化はふたたび注目を受けるようになった.
外来でのうつ病の治療は薬物療法であれ精神療法で
あれ,定期的な受診や服薬遵守を通じて患者の合目的
的な行動を活性化させることを伴っている.

●治療の指針

1.なぜプラセボは効くのか
プラセボ効果がこれだけあると,かならず“な
ぜ”という疑問が生じる.これに対する確実な答
えは,「“なぜ効くのか”の答えが存在しない治療
法をプラセボとよぶ」である.効果がある理由を
説明できないからプラセポ効果とよぶのである.
また,プラセボが効くのは特定のタイプの患者だ
けであろう,プラセボに反応した患者はどのよう
なタイプか知りたい,という疑問もよくある.こ
れは治験の依頼者がもっとも知りたいことであ
る.それがわかればプラセボが効きそうな患者を
事前にみつけだし,治験から排除することができ
るからである.実際,プラセボ反応の予測因子を
調べた研究が多数あるが,はっきりした予測因子
はわかっていない.現在のところ,プラセボ反応
が低いことがわかっているのは重症例l0)と慢性エ
ピソード11)である.DSM-IV-TRでのメランコ
リーサブタイプはプラセボに反応しにくいと従来
信じられてきたが,根拠はない.気分変調性障害
は従来型診断では神経症性うつ病とされ,薬が効
かず,精神療法が必要であるとされてきたが,気
分変調性障害はプラセボにも反応しにくい.
しかし考え直してみれば,プラセボ効果がある
ことは“抗うつ薬”にとってはたいへん不都合で
あるが,患者にとっては好都合である12).プラセ
ボドリフト(「サイドメモ3」参照)があるというこ
とは,うつ病の患者にとっては効果が高くなって
きている治療があるということである.精神医学
は“なぜ”に答える必要がある.

サイドメモ3
プラセボドリフト(placebo drift)
抗うつ薬が本当にうつ病に効くかどうかを検定する
ための標準的な方法が,プラセポ対照二重盲検無作為
割付比較試験(Randomized conlrolled trial:RCT)であ
る.近年行われたRCTでは,抗うつ薬がプラセボに勝
てないことが普通のことになってきた.プラセボ対照
試験のメタアナリシスを行うと,プラセポ反応と西暦
が相関していることがわかった13).このようなプラセ
ボ反応が年を追うごとに上がっていく現象をプラセボ
ドリフトとよぶ.この現象は.機能性胃腸症に対する
消化管機能改善薬の臨床試験でも認められている14).
日本の専門家は長らくプラセボ投与に心理的抵抗が
あり,この現象を実感することがなかった.日本での
抗うつ薬の臨床試験で,2003年から低容量の試験薬
(偽プラセボ;pseudoplacebo)を使った試験,2004年
から本来のブラセボを使った試験が行われるように
なった.著者の知るかぎり,2003年から4種類の抗う
つ薬の試験が行われている.そのうち,偽プラセボや
プラセボに優位を示すことができた薬剤はただひとつ
である.これらの薬剤は欧米ではすでに抗うつ薬とし
て広く使われている.
ひとつの臨床試験のために数十億という大金を投資
している薬品会社にとって,プラセボ反応者は大敵で
ある.プラセボ反応者をなくすために,臨床試験のプ
ロトコールに工夫が行われてきた.最初は試験中の他
の抗うつ薬の併用を禁止する程度であった.しだいに
厳しくなり.抗不安薬の使用を禁止し.睡眠薬を禁止
するようになった.さらに最近は,試験にエントリー
する前1週問のいっさいの服薬禁止,エントリー後1
週間の問,プラセボを投与する.などが行われるよう
になった.後者のやり方を’placebo run-in period’と
いう.プラセポ反応者はこの2週間の問に改善するは
ず,この2週間で改善しない患者のみを試験にエント
リーすれば,プラセボ反応者をなくせるはず,という
考えによるものである.結果的には,これは薬品会社
の期待とは逆の効果を生んでいる13).

これまでに考えられているプラセポ反応の説明
としては,つぎのことがあげられる.
①励ましの効果……うつ病は絶望することが
主要な症状である.それに対して治る・治療でき
るという希望を与え,薬を飲むように励ますこと
に効果がある.
②うつ病には自然寛解がよくある……うつ病
の自然経過を観察した研究がある.Kendlerら15)
はうつ病の女性について調べ,寛解するまでの中
央値は6週間で,12週後に75%が寛解したこと
を示した.もし,寛解までの中央値が6週間で,
12週間後には75%が寛解するようなうつ病の患
者グループが治験に入ったとすれば,8週間の治
験の間にプラセポであっても半分以上は寛解する
のが当然ということになる.
③うつ病の患者が受診を決意するのは最悪の
ときから上向きかけたとき……うつ病は悪化と軽
快の間を繰り返す波のある病気である.悪くなり
はじめたが,まだそれほどでもないというときに
は受診しない.最悪の状態で意欲もないときも受
診しない.受診しようとするのは最悪を脱して受
診する意欲がわいてきたときである.このような
ときに自ら受診した患者は調子が上向きの波にあ
るため,受診時からみれば自然経過だけでも多少
よくなる.株を底値で買えば自然に上がるのと同
じである.
“一般的健康行動’の効果……Simpsonら16)
はすべての疾患について薬物療法全般とプラセポ
反応の関係を21のRCTについてメタアナリシ
スを行った.その結果はつぎのようになった.①
プラセポ服薬に対するよいアドヒアランスは低い
死亡率と関連していた,②有用な実薬に対するよ
いアドヒアランスも低い死亡率と関連していた,
③有害な実薬に対するよいアドヒアランスは,高
い死亡率と関連していた.まとめれば,プラセポ
をきちんと計画のとおりに受診し服薬すること
が死亡率を下げるのである.彼はこれを“一般
的健康行動”とよんでいる.

2.治験における“精神療法”
精神療法のマニュアルはあるが,治験はどのよ
うに行われているかは一般には知られていないと
思われる.治験はどのようにして行われているの
か,具体的なところを患者の立場から示すことに
しよう.以下は仮想的な患者による一種の感想文
である.
「治験は最初の症状評価と説明同意からはじま
る.同意文書は10頁以上あり,うつ病と種々の治
療法,治験自体,患者の権利,治験薬の期待され
る作用と副作用,治験中の注意事項などが詳細に
書かれている.説明だけでも30分はかかる.その
場では同意をとらず1週間程度間をおくこともあ
る.同意説明が終わると検査がある.
治験中の注意事項も2頁ぐらいある.最近の治
験は以前のものと比べるとプラセボ反応を減らす
目的で被験者が守るべき項目が多い.一部の睡眠
導入剤を除いて向精神薬の併用は全面禁止が原則
である.鎮痛剤やサプリメント,麻酔剤なども禁
止の対象になる.抗不安薬の頓服はできない.睡
眠導入剤も量が決められ,眠れないことを理由に
薬を繰り返し飲むことはできない.他の精神科と
二股をかける,心理士のカウンセリングを受ける
ことも禁止である.飲酒もしないように勧められ
る.受診は毎週決められたときに行い,予約制で
ある.患者が忙しくても薬の処方だけもらうこと
はできず,かならず問診と重症度評価が行われる.
予約を変えることはできるが,前後2~3日までと
いう縛りがある.服薬は確実にチェックされ,飲
み残しも薬の空き袋もすべて病院にもってこなけ
ればならない.有害事象(副作用)のチェックも治
験の目的なので,治験中に経験したありとあらゆ
る予期しない症状はすべて報告しなければならな
い.治験期間中に患者が自分で記録する症状など
を書く日誌が手渡され,日誌の内容が毎回の受診
でチェックされる.
実際のこうした説明は医師だけでなく患者一人
ひとりについた担当の臨床試験コーディネーター
(CRC)が行う.治験期間中に起こった予期しない
こと,気になることがあれば,CRCに連絡するよ
うに勧められる.
最初の1週間は薬なしの期間(観察期間)である.
この間,以前に服薬していた薬があるときは離脱
症状があるが,精神薬は飲めない.飲めば治験は
中止となり,新薬を飲むことはできず,せっかく
の検査や同意説明が台なしになる.苦痛な症状が
あればCRCに電話で気楽に相談することができる.
CRCは話を詳しく親身になって聞いてくれる.そ
して症状を乗り越えれば,治験薬を開始できる,
治験を開始すれば症状もよくなってくるであろう
と説明してくれる.しかし,いまがどのようにつ
らくても薬や注射をもらうことはできない.
治験薬を開始すると薬の副作用がある.多少の
ことがあっても減らすことはできない.かならず
決められた量を毎日飲む必要がある.治験薬をや
めるか,続けるかのどちらかしかない.選択は患
者の自由といわれるが,ここまできてやめること
はできない.症状はまだよくならないが,このま
ま続ける.
2~3週すると多少よくなってきた感じがある.
しかし,症状評価ではまだ完全ではないといわれ
る.治験薬が増やされる.副作用の不安があるが,
決まったことなので,増やされた薬を飲む.
5~6週するとしだいに気分が晴れてきた感じが
ある.症状評価を受けると自分でも前と違ってき
たことに気がつく.異性に対する関心が出てきた
し,ショッピングしようという気持ちも出てきた.
なによりも自分を責めなくなったことがわかる.
以前,精神科を受診したときは薬を飲め,だけ
であった.毎回の受診のときに聞かれることぱ薬
は前のままでいいですか?”だけであった.副作
用があるといえば副作用止めの薬が増え,効き目
がないといえば薬が追加された.しだいに,先生
には相談せず,自分で調整して飲むようになって
いた.そのうち多少よくなれば薬をやめていた.
何年もこの調子で精神科にいったりいかなかった
りしていたが,完全によくなったということは一
度もなかった.』

3.健康行動
うつ病を継続させる病的な行動はつぎのように
表現できる.嫌な気分がなくなることだけを願い,
そうした気分が起こりそうな場面を避け,一人で
いるときにそうした気分になればベンソジアゼピ
ン系の頓服を飲み,このような自分になるきっか
けをつくった親や他人を恨む.そして夜になり,
家族が寝静まると目が冴えてきて,いろいろ自分
について考えはじめる,「こんな風に他人を責めて
いる自分がダメだ,前向きになれない自分がダメ
だ.このように考えているばかりでいるのがダメ
なのだ」と自分を責め続ける.責めるのに疲れる
とつぎのように考える,「こんなに考えているうち
に疲れてだるい,体中が痛い.自分はうつ病なの
だ,だから自分にできることはなにもない,いま
は早く薬を飲んでとにかく眠れるようになりた
い」.
健康行動はこれとは逆である.具体的な行動目
標をもち,実際に外に出かけ,人と交わり,事前
に計画に沿った行動をし,毎日の記録をとる.気
分やその日の体調で活動を変えることをしない.
治験はまさに健康行動を増やすように機能してい
る.治験では体の症状を報告すること自体も行動
目標である.一方,体の症状を報告しても治療は
変わらない.CRCは患者の話を親身になって聞く
が,指示やアドバイスはしない.CRCは患者が治
験のプロトコール通りに行動すればほめるが,そ
のとおりにするかどうかは患者の自由意志に基づ
く選択であることを強調する.

行動活性化は健康行動を増やすことを正面にお
いた行動療法である.健康行動を増やす機能は他
の認知行動療法にも共通してみられる(「サイドメ
モ4」参照).認知修正や問題解決訓練,マインド
フルネストレーニングなどは患者が自分で動き,
多少の不快な症状があってもそれにこだわらずに
必要な健康行動をするように促している.

サイドメモ4
行動療法と認知行動療法
一般的な医学や心理学の文献では,行動療法(behavior
therapy:BT)と認知療法(cognitive therapy:CT),認知行
動療法(cognitive behavior therapy:CBT)はほとんど同
じものを指すようになっている.MEDLINEのMeSH
termではBTがCTの上位の概念とされているが.現在
の一般用語としてはCBTがすべてを総称する用語とし
て用いられることが一般的である.歴史的には,CBTは
三世代に分けられる.①第一世代(1950年代にEysenck,
H.J.,Wolpe,J.らによって行動療法の概念が確立した),
②第二世代(Beck,A.TやMeichenbaum,D.,Clark,D.な
どによる認知療法が導入された“認知行動療法”という
名称は,Meichenbaumの著作のタイトルとして登場す
る.このときからBT.CBTの普及が進み,これらを利
用する側にとっては双方の区別がつかなくなった),③第
三世代『Hayes,S,C.やLinehan,M.M.,Kabat-Zinn,よら
がMindfulness,Acceptanceなどの新しい概念を取り入
れた.第二世代が提唱した認知モデルを否定する動き,
第一世代への回帰でもある).
CT,CBTは認知と行動を分けてとらえることが特徴で
ある.たとえばうつ病の場合,出来事に対するクライエ
ントの否定的な考え方がうつ病の原因であるとする.こ
のようなものの見方や考え方を不合理な認知(自動思
考,スキーマ)とよび,それらを再検討し,変えていく
ことを主眼としている.スリーコラム法などの自動思考
を記録し.考えを修正する方法を認知修正法とよび、CBT
ではかならずといってよいほど用いられる.CBTは一般
的には治療バッケージとよぱれる種々の治療技法をまと
めたマニュアルに従って行われる.
BTは認知も行動としてとらえる.会話や考えも言語行
動やルール支配行動とよぱれる行動である.なにを行動
とするか判断する方法として“死人テスト”がある.こ
れは死人でもできることは行動ではないとするものであ
る.逆に,行動とは死人にはできない活動ということに
なる.たとえば“寝ている”,“休んでいる”’は死人でも
できる.また“イライうしない”のような否定形,“癒し
てもらう”のような受身形で表現されるようなことも行
動ではない.死人はイライラしないし,亡骸でも癒され
ることはできる.
BTを特徴づけるものは理論や内容そのものではなく.
問題へのアプローチの仕方にある.診断よりも問題行動
を維持する要因に注目する.病気が起こる前からある原
因や誘因ではなく,病気が起こったあとに起こる変化や
結果に注目し,結果を操作することによって病気を変え
ようとする。BTは本来的には個人個人の個別の問題に合
わせて,テーラーメイド方式で行われる.治療法の評価
も単一事例実験計画(N of 1試験)17)によって行われるこ
とがよくある.

おわりに
ここに書かれたことは,うつ病治療に関するい
ままでの常識とかけ離れたところがある.一方で,
SSRIや認知行動療法が導入される前からうつ病
の診療にあたってきた50代以上の精神科医に
とっては当然のことにみえるであろう.
しかし気をつけていただきたいことは,CBTや
SSRIの効果があるというエピデンス自体が否定
されたわけではないことである.これらは効果が
たしかにある.その効果の理由が違ったというこ
とであり,そしてその効果の理由はいままで無視
されてきた,いわば当たり前の“健康行動”にあ
るということである.当たり前のことを見直し,
それをよりよく使うということは実は難しく,学
びがたい.ただ抗うつ薬を処方し,患者に飲ませ
るということだけであって本だけでは学べない.
行動活性化や治療に対するアドヒアランスを強め
るとされる動機づけ面接18)のトレーニングが広が
ることを望んでいる.

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