BPDについてのメモ 2008-3-10
怒り・攻撃性にバルプロ酸がやはり効くようだ。
薬剤は慎重にすべきだとやはり思う。
薬剤をODすることで、医療を対象として行為障害を起こす。
まあ、その分、周りは一息つくかもしれない。
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なるほど無理もないと思える部分を見つける。
そこを伸ばす。
共感性のない人に、共感性の見本を見せる感じで。
ミラーニューロンを働かせる。
治療ターゲットとしては、衝動的行動のほうが変えやすい。
それも10年勝負。
しかし10年は、患者さんの多くのものを奪う。
それがさらに自信のなさや空威張りにつながる。
脳や筋肉の廃用性萎縮というものがあるが、
社会性機能についても同じことがいえる。
学校から社会へ、滑らかにつながらないと、
社会性機能はどうしても廃用性に萎縮する。
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カンデール Kandelの実験。
Potenciation
キンドリング
ウミウシのエラの反応で研究。
刺激を続ければ、敏感になる。
くり返し刺激すると強く反応するようになる。
学習の一種。
私見では、
刺激を続ければ、敏感になる部分と、
刺激を続ければ、鈍感になる部分と、
刺激を続けても、感度が変わらない部分と、
この三つが連続してスペクトラムを形成するはずだと思う。
刺激が続けば意識下のものとしてカットしてしまう機能もある。
いちいち反応しても無駄だからだ。
すると、
刺激を続けていたら鈍感になるべき部分が、
鈍感にならないでいるだけで、
結果は、刺激に対して敏感になるのと、似たようなものになるはずだ。
特に社会に生きる人間としては、
他人と比較して、そういうことになる。
少しのストレスでも発症する。
うつ病も最初は起こりにくいが、繰り返しているうちに起こり易くなる。
たいしたストレスでなくても起こってしまう。
これは統合失調症でも、パニックでも、てんかんでも、いろいろな形で言われていることだ。
キンドリングはてんかん関係の用語だ。
再発を準備してしまう。
着火しやすくなる。
これは危険回避行動としては合理的。
あつものに懲りてなますを吹くの類であるが、
過剰な回避行動として解釈できる。
過剰であっても、完全に回避した方がいい危険もある。
しかし現代の日本社会で生きていて、
そのような、完全に回避すべき刺激がたくさんあるはずはない。
しかし他人というものについて、いやな経験をしてしまった人は、
一回ごとに、ヒグマと出会ってしまったような不安・恐怖の体験をしているのだ。
海馬・扁桃体と大脳皮質。
記憶と現在起こっている事象との比較検証。
すると、昔のいやな記憶が大きく影響する。
今現在目の前で起こっていることの解釈も、集団の一般とずれてしまう。
戦争体験や性的暴行体験もそのようにして、現在の経験の邪魔をする。
攻撃の二つのタイプ。
ひとつはコールドな攻撃。はじめから目的を持って、冷酷なもの。反社会的性格障害。心拍数も変わらない。辺縁系や情動系がかかわらない。
これはドクター・レクター。看護師の耳をかじって、心電図に乱れが出なかった。
他方、ホットな攻撃は不安・恐怖に反応して、辺縁系・情動系を巻き込んで攻撃反応する。こちらはBPDのタイプ。非合理的・情動反応的な攻撃。
猫がたいした危険でもないのに反応して、背中を大きく持ち上げて反応している感覚。
その様子を見ていると、猫は現実に目に映っているもの以外に何かを見て、感じているに違いないと思う。
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責められる。見下される。被害を受ける。
相手は責めるつもりではないのに、患者さんは、責められていると受け取ってしまう。
責められている感覚を自分の内部で処理できずに、現実の相手にぶつけてしまうので、
話がややこしくなる。
相手は理解してくれないし、自分は消耗する。
相手がうんざりしているのが見えるから、
「やっぱり!」ということになる。
この経験が重なると、学習は強化され、
信念は固定化する。
あまり言いたくないことだが、
現代社会では、そのような不信の固まりの人を、
上手に乗せて、お金を巻き上げる人たちもたくさんいる。
巻き上げられた果てに医者にかかる。
その時点ですでに人間不信は極点に達している。
実際に、その人にとって、人間は信じてはならないもので、
確信としてもそうであるし、
客観的現実としても、そうであったのだ。
不幸としかいいようがないが、
未来を信じるなら、未来を生きるしかない。
思うに、そのような加害者や搾取者が独りで生きているはずもなく、
その搾取した利益からまたさらにおこぼれをいただいている人もいるのだろうと思う。
その人たちは、分かっていても、その人を止めないのだろう。
いろいろな考えの人はいるものだが、しかしそれでも、社会のお互い様のルールの中に入る程度に、
訂正できないはずはないのだが、見てみぬふりをしているのだろうと思う。
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本人はそれなりに我慢している。
他人が過剰に責めると感じるので、
過剰の怒りや悲しみで反応してしまう。
たとえて言えば、補聴器のボリュームが大きすぎる。
相手は普通に話しているのに、怒鳴られているように感じる。
何事かと思って、総毛立つ。
全部がこうではないだろうけれど、
一部は多分そんな風だろう。
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どうして怒りの表情を読み取ってしまうのか。
コンピュータで人の顔の写真を連続して変形させて、10枚くらい見せる。
アミグダラが強く反応して不安・恐怖がひきおこされる。
これは脳画像で確認できる。
しかし不安・恐怖は悪いものではない、不幸を回避できる、とひとまず考える。
それでも、いつも、不必要に戦ったり、逃げたりしていないか?と考え直して、
現実のいまの状況で、どう反応したら、自分にとって最適なのか、考える。
過剰反応は、おおむね、損である。
副腎皮質系が過剰反応している。
ストレス反応系が亢進している。
その反応の過剰を抑制できれば一番いい。
できないならば、せめて外に出さないでいられれば、それでも、何とか生きていける。
共感性の問題。
ミラーニューロン。
他人がいやなにおいを嗅いでいる写真で、いやな感じを感じることができる。
他人がくすぐられている写真で、くすぐったさを感じる。
集団の中で生きていくに有用な機能。
その部分がうまく働いていないと、他人と気持ちがすれちがう。
この説明で言えば、「他者の心」をどう認知するか、という、
最近流行の問題であり、
他者の心を認知する唯一のモデルは自分の心であるから、
自分の心をモニターできているのかという問題でもある。
自分の心の状態を自分がどのようにしてモニターできるのかという問題については、
なかなか難しい。
こころの言葉と脳の言葉が必要。
脳の言葉だけでは納得ができないし、
こころの言葉だけでは、検証できない。
客観的なデータで説得されたほうが、受け入れやすい。
血圧でも、血糖でも、そうだ。
まして、攻撃性が過剰だとか共感性が欠けているとか、
他人に言われて、素直に納得できるはずもない。
またまた他人からの過剰な攻撃かと思って、身構え、
いつものように過剰な反応をするだけだろう。
解決にならない。
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悲惨な幼児体験を話す人もいて、
それが事実か作話か知る方法もないけれど、
それでも、そのような幼年時代を生きてくれば、
現在がそうであっても仕方がないだろうと思う部分もある。
親の関わり方も難しい。
間違った信念をうっかり強化してもいけないし、
頭ごなしに貶めて自信喪失させてもいけない。
親としても、自分も加害者なのかと思う部分もあり、
最初の加害者ではないとしても、
何番目かの無理解者であった可能性は、
どうしても否定できない。
現実に結果として、悪かったのであれば、充分ではなかったのだと自己批判するだろう。
それも、どうしようもない。
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自己モニタリング不全の話は、あちこちで登場して、
原因なのか結果なのか、よく分からない。
いずれにしても、よくないものだろうと思う。
しかしまた、おなじ自己モニタリング不全でも、
自分に対する評価が、現実の自分よりも少しだけよいと、一番幸せだと思うこともある。
現実の自分よりも、少しだけ美人だと確信していれば、
なんとなく楽しく生きられるだろう。
ちょっとだけの自己愛はみんな持っているし、むしろ必要である。