発達障害2018年11月15日

旧石器時代は、狩りをしなければ生きていけません。石を投げる能力がなければ「遠投不能障害」、弓を引く能力がなければ「弓射不能障害」という風なカテゴリーをつくり、できない者は保護してあげないとその者は生きていけないでしょう(時代が時代なので保護された可能性は低いとは思いますが)。

現代の大半の文明国家では、最低限の知能がなければ社会生活を営むことはできません。一定の知能がない者は「知的障害」として、保護しなければ生きていけません。

そして、(その国家・文明における)”標準的な”コミュニケーション能力・自我抑制能力等がなければ、社会生活を円滑に送ることはできません。それができない者が「発達障害」とか「パーソナリティ障害」に分類されるのでしょう。旧石器時代では存在の必要性が極めて薄い概念ですが、現代では必要になってきます。

当然ながら、脳における各種能力は各個人で差がありますので、「ASD」と診断される群とそうでない群に分けると、とある部位で脳の機能に差がでるのは当然予想されます。当たり前といえますね。「ADHD」も「dyslexia」も同じことが言えると思います。

ですので、診断基準についてあれこれ議論しても永遠に決着がつかないでしょうし、原因・遺伝的要因を追及してもそれほど強い確定的な結果は出てこないと思われます。

だって、運動能力の高い親からは運動能力の高い子が生まれる率は一般よりは高いですよね? 知能も遺伝的影響や、人種差はありますよね? もちろん、エピジェネティクス等の影響は無視できないので、絶対ではありませんが、どうしても影響は受けます。

よって、ADHDっぽい親からはADHD的な傾向のありそうな子が生まれる可能性は少し高くなるでしょう。もちろん、ADHDの要素のない子が生まれる可能性も高いですし、仮にADHD傾向のある子だったとしても、生後の家庭環境・社会環境の影響も受けるので、不幸になるとは必ずしも限らないですし、実際に社会で大活躍されている方も多くいます。

日本では、ムラ社会的な環境が強いので、ASD・ADHD傾向のある方はより生きにくい社会ですね。でも逆の視点として、一般的な日本人は他者と同調しないと生きていけない「他者同調性追及障害」である、という風に諸外国の人からは捉えられるかもしれないですね。

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