秋になり、わずかではあるが風流の儀もある。
茶の席があり、碗には和歌が添えられていて、あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る とある。他意はないと見た。ただ分かりやすい一首を添えただけだろうと思った。
このような席では物合(ものあわせ)の習慣もある。花や小箱の優劣を競い、その際にしかるべき和歌を添えたものらしい。やがて歌の優劣を決する歌合(うたあわせ)が発達した。紀貫之の頃から始まり、定家、後鳥羽院などの、新古今集あたりで満開となる。
さて、定家、後鳥羽院周辺でさかんに行われた歌合では、歌の優劣の規則が少しずつ明らかにされる。
このあたりは英国憲法のようだ。日本の憲法は条文が先にあるが、英国は憲法の条文はない。しかし、すべての国内法に優先する法として英国憲法は条文はないままに存在している。
判者は時に露骨に政治的に、時に衒学的に、しかし総体してはまさに日本語の本質と日本語の美意識の細部を解き明かしている。
そもそも二首の和歌があったとして、その優劣を決することなど出来る物だろうか。それぞれによいとしか言えないものだろう。二人の小学二年生がいて、どちらが「いい子」かと比較することなど出来ない。しかし身長を比較するのなら、比較的簡単明瞭に可能である。
定家・後鳥羽院周辺はそのあたりの「物差し」を提出したのである。「価値観」である。そしてその価値感は日本語の骨格として受け継がれ、丸谷才一「新々百人一首」や堀田善衞「定家名月記私抄」などを手に取るにあたり、改めて知らされるところとなる。
さて、そこまではとりたてて語るほどのこともない。その先のことである。たとえば、小学生の俳句がある。金子兜太・あらきみほ『小学生の俳句歳時記』2001 蝸牛新社。
座禅会むねの中までせみの声(小6男)
ぶらんこを一人でこいでいる残暑(小6男)
春風にやめた先生のかおりする(小4女)
つりばしがゆれてわたしはチョウになる(小3女)
星を見る目から涼しくなってくる(小4男)
あじさいの庭まで泣きにいきました(小6女)
くりごはんおしゃべりまぜて食べている(小3女)
ぼんおどり大好きな子のあとにつく(小6女)
風鈴に風がことばをおしえてる(小4女)
改めて感動する。大人の俳人の困惑も思い浮かぶ。
日本文学の底流を知らず、アララギも知らず、軍靴の音も知らず、何かの偶然さえあれば、小学生もこの程度の文芸が可能であるということ。それが私にとっては謎だった。小学5年生にドストエフスキーを書いてみろとは、言えるわけがない。しかし俳句ならここまでできてしまうのである。
ここに日本文学美意識の発露があると見る。
そもそも文学には省略系と構成系の二者を考えることが出来る。省略系は、「相手にも分かっていることはわざわざ語らず省略して、相手の心内に、ある印象が結実する必要最低限のものを提示すればよい」主義であると言えるだろう。短歌、俳句がそうである。省略するからには、背景に広がる共通部分は大きいと考えざるを得ない。特に短歌も、題詠で縛りをかけるとなるとなおさらである。ルールを多くすれば、共通認識は増える。
一方、構成系は、必要最低限の共通認識しか要求しない。そしてそこから一つ一つ規定し構成し、世界を作る。これは現代ではテレビゲームの世界とかアニメの世界とかで発達しているだろうと思う。だかそれらは日本だけではなく世界の子供達の心をつかむ。
省略系と構成系の二種を対比したが、逆に考えれば、どれだけの共通知識や共通感性を要求しているかということになる。省略系において、共通知識・感性があまりにも広い場合、かすかな刺激で感動に導くことができる。極論を言えば、偶然の壁のシミでもよいのだ。現代芸術は、そのようにして、大きな領域の共通認識を要求していることがある。前提条件があれこれとやかましいものがあるのはそのためである。いろいろな解説を読まなければ感動できないものまである。聞くところによれば、これには実作者でさえ辟易しているのであるが、どうしようもない。
さて次に、共通認識のレベルを見ていこう。
最も共通認識を要求していないテレビゲームなどの場合、ただ人間であり、脳であれば、それ以上は要求していないように思われる。
次には万葉集のレベルであり、ある程度、男女や親子の愛を共通認識にしているものと思われる。どの言語にもある基本的な要素がそろってくる。ソシュールの普遍文法のようなもの。
古今集になると日本語独自の美意識が芽生えてくる。
新古今集にいたり、日本語独自の美意識は明確になる。二つの和歌を並べられて、優劣を決することさえ出来る。
本来、和歌に優劣などあるはずはない。それが決まるのは、物差しが決まったからである。たとえば、すべての和歌は富士山のどこかに位置するのである。東を向いているもの、西を向いているもの、色々あるが、標高で比較して、優劣を決する。そのような価値観が確立したのが定家・後鳥羽院の頃であり、我々の現在の日本文化は、基本中核をそこに置いているのだと思う。
さらに最近の落書きに似た作品は、他人に共感されることを目指していないようだ。ただ仲間内の言葉で語っているだけのようだ。共通の認識背景のない人に省略形芸術は不可能だろう。理解の隔絶した人間に対しては、構成系の芸術により、一つ一つを厳密に圧倒的に納得させていかなければならない。新しい美意識を表現する場合には、古い日本語に寄りかかっていてはいけないのだと思う。逆に言えば、小学生の俳句が新鮮であったとしても、それは旧来の日本語が内蔵していたものでしかない。正確に言えば、作ったのではなく、内蔵していたものを発見しただけである。だから評論家にも分かってもらえる。この範囲を超えた作品については、批評家を拒絶するだろう。批評家は古い言葉を語り、古い社会で生計を立てているからだ。
並べてみれば、
基礎背景:脳→一般言語(ソシュール的)→日本語(通事的)→日本語(今日のこの刹那)
この系列がまずある。
省略系で最もすばらしいのは、脳の仕組みに肉薄する作品だ。次には普遍文法に依存するもので、この範囲のものは翻訳さえ可能である。次には通事的日本語に依存するものだ。今日刹那の日本語に依存する作品はほとんど意味がないとの意見もあるだろう。
構成系は脳だけを要求していて、単純に、食欲、性欲、征服欲、所有欲、安全欲求などを共有物として要求しているだけだろう。そして背景とする文化としては、過去のゲームの名作などがあるのだろう。次第に短歌と相似形の文化になるのかもしれない。
考えはそこまで及び、時間になった。礼儀なので、
むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我れ恋ひめやも
を書いておいてきた。この歌をどのレベルのメッセージとして受け取るのか、さまざまに要素はあり、それが文化の深さなのかとも思う。外は雨だった。