対他配慮は文化依存性成分である 2008-5-25
執着気質の指標としてあげられている四つは、
1.陰性気分の持続
2.几帳面
3.徹底性
4.対他配慮
があげられる
それぞれMAD理論でいえば、
1.=depression成分=延長にはdepression
2.=Anankastic成分=延長にはOCD
3.=Manie成分=延長にはManie
であるが、対他配慮については、文化依存性成分であると考えている。
日本人の対他配慮は、昔は分からないが、戦後から高度経済成長くらいまのでは、
気配りであり、同調性であり、協調性であった。
最近では自発性とか独創性とか独自性が強く求められているようで、
ブレインストーミングなんだから、あっと驚くような意外なことを言ってみろ、
となる。
しかし実際にそんな事を言えば、尖っていると後で悪口を言われるし、
難しいものである。
他国のことはよく知らないが、
朝鮮半島はまだかなり対他配慮が強い、
中国対立はむしろ尖っている人も多いが、そのような一群はアメリカに行くので、
日本に来るような人たちは何となく気後れを感じるような人たちで、
やはり対他配慮の強い一群なのかもしれない。
アメリカ人のクリエイティブ集団は、
尖っていること、人と違うこと、人と違う感受性、天才、が
求められているようで、それぞれがそのように振るまい、
結果として、強い集団を目指している。
敵対集団に責められて困るよりは、
あらかじめシミュレーションしておきたいということなのかも知れない。
だから、長い目で見れば、対他配慮になっているし、
友人に対する応援になっているのだ。
社会が変われば、現れ方が変わる成分のであるが、
ということは、その基底にあるものがあるはずで、
かなり生物学的で変化のない基盤があるはずだと思う。
日本で一昔前は、集団の中で生きるということは、つまり、対他配慮的に生きるという事だった。
気配りの勧めもあった。
いまは気配りだけではやっていけない。
具体的な利益を上げなければならない。
具体的な利益こそが一番の気配りなのだ。
嫌われ者でも、尖ったやつでも、なんでもいいから、
具体的に魚を釣ってくるやつが求められている。
同僚を気持ちよくするだけのやつは
困りものになりつつあるのだ。
その辺の風向きを読めると言うことが
空気を読めるということのひとつなのだ。
そのようにして考えて、
今だに対他配慮の本質がつかめず、
MADの循環と社会の状況との、単なる副産物ではないかと思っている。
圧倒的な才能があれば対他配慮はなくていいし、
むしろ、「わたしは対他配慮なんか必要ないわ」というくらいの
圧倒的な才能しか、集団は必要としていないのだ。
かなり極単に言えば、気配りは派遣で買えるのだ。
お愛想と、エクセル能力と、気配りは、派遣で買える。
派遣では買えないものが欲しいのであって、
それは圧倒的な才能である。
そうした才能をみんなで分けたいというのが組織というもので、
才能を持つ人はばかばかしいので組織を抜ける。
そして組織に残っているのは、無能者の気配り集団になる。
対他配慮は
要するに他人に敏感だということで、
嫉妬や足の引っ張り合いや陰口が多くなる。
才能がなくて対他配慮が溢れている場合、
そのような困ったことになる。
才能がなくても、儲かる仕組みがあれば、
あとはそれを死守すれば良い。
いわゆる抵抗勢力である。
外部に対しては儲かる仕組みを守りつつ、
内部では対他配慮をして生き延びる。
これも一つの典型だったが、
最近では格好悪いので、
さっさと外に出たがる。