いじめ 2008-3-12

いじめ 2008-3-12

泥棒した人と、泥棒された人がいる。
心を傷つけた人と、傷つけられた人がいる。

泣いていて、うつになっているのは泥棒された人である。
泣いているのは、心を傷つけられた人である。
医者は泣いている人を慰める。

泥棒した人は、法律的にはどうしようもないという場合がほとんどで、
お咎めはなく、自分を責めることもなく、反省することもなく、平然と生きている。
ますます傲慢に生きている。
それでいいのだろうか。

*****
人間は、自分の言ったひどい言葉は忘れている。
自分のしたひどい行為は忘れている。

言われた方は覚えている。
されたほうは覚えている。

この非対称はなんだろう。
許されるものだろうか。

医者の仕事として、
ひどいことを言われた・された側のケアをすることはよくある。

しかし、いった側・した側のケアをすることはほとんどない。

言った者勝ち、した者勝ちなのだろうか。
そんな社会でいいはずはない。

会社でも、家庭でも、人間が何人かいれば、起こってしまう事だ。
珍しいことではない。

こんな社会でいいのだろうか。
こんな社会に参加し続けていていいのだろうか。

*****
人が一番つらいときに、その一番つらい部分を攻撃して、平気な人間がいる。

一度そんなことをしてしまっているのに、
本人は忘れているのだろうか。
こちらは決して忘れないのに。

覆水盆に帰らず。

言ってはいけない言葉を言ってしまったことの責任は、やはり、人間として、
受けるのがいいと思う。
何も死刑だといっているのではない。
妥当な苦しみを受けて当然だというだけだ。

言われたものだけが苦しむのは本当に納得できない。
言われた人だけをケアして、世の中がよくなるのか、
とても疑問だ。

ひどい言葉を投げつける人がいたら、
その人が精神的には一番病んでいるのだと思う。
その人こそ手当てが必要なはずである。
しかしそれがなされていない。
それは本人のためにならないし、社会のためにならない。
しかしそれは往々にして社会の勝者なのである。
自分の優位な立場を背景にして、
攻撃している。

だから、それを病気とは思わず、
勝者によるイジメだと感じている。
ある場合には、正当な指導だとさえ言う。
導くのだという。
そうではないだろう。
あなたがたの情操の欠落なのである。
他者の心を感受するモニター能力の障害なのである。
治療が必要なのは、
いじめる側という優位者である。

*****
「あなたはつまらないことをいつまでも覚えている」
「いつまで同じことを言っているのか」
いじめる優位者の常套文句である。
「さらにはそんなことを言った覚えはない」
と言い放つ。
「誤解だ」と居直る。
「どうしてそんなに被害的なのか」とさらに攻撃する。

いつまでも忘れることのできない傷を作ったのはあなたではないか。

おごり高ぶったこころは、
この世で栄える。
仕方がない。
そういう世の中なのだ。
しかし断じて正しいことではない。
あなたには罪がある。

その冷酷な攻撃性は明らかに罪だと思う。
かっとなって取り乱して、わけの分からないことを言っているのではない。
冷静に、相手の一番つらいところに塩をすり込むように、
ことさらに、攻撃する。
なぜそんなにもいじめて、そんなにも攻撃するのか、理解できない。
そんなにも相手を不愉快にして鬱にして、
あなたは楽しいのか。何の利益があるのか。
心の中心が病んでいるとしかいいようがない。

そう考えると、攻撃する側の、頭の中の価値観の天秤が壊れているとしか思えない。
できるだけ仲良くやっていったほうが誰にとっても幸せではないか。
なぜそれが分からない。

なぜそこに余計な緊張をもたらすのか。
なぜ亀裂を走らせるのか。
あなたにだって不利益をもたらしているのに。

そこに病気があるとしか思えない。
そして彼らは強者であり優位者であるから、
医者に行ったりしない。
攻撃の手段だけをますます身に付ける。
表の手段としては、制度、法律、人脈、
裏の手段としては、もろもろ。

この種の人たちが、泣きながら医者に来ることは、まずない。
共感不能で理解不能な攻撃性を高めて、
会社の一室で、あるいは弁護士を交えて、あるいは業者を巻き込んで、
どうにかしろと語る。

心ある人は、そのような相談をきっぱりと断って欲しい。
それは間違っている。
わたしは相談には応じられない。
そういって、きっぱりと、断って欲しい。
それが本人のためなのだし、社会のためなのだ。

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