うつ病の社会文化的試論-特に「ディスチミア親和型うつ病」について-2007-11-26

うつ病の社会文化的試論-特に「ディスチミア親和型うつ病」について-2007-11-26

あの有名な、樽味氏の「ディスチミア親和型うつ病」のお話。分かりやすくていいですね。

原著論文日社精医誌,13:129-136,2005
うつ病の社会文化的試論-特に「ディスチミア親和型うつ病」について-
樽味伸,神庭重信

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抄録:わが国のうつ病の気質的特徴として,几帳面で秩序を愛し,他者配慮的である点が指摘されてきた。しかし昨今の精神科臨床においては,比較的若年者を中心に上記の特徴に合致しない一群が多く現れ始めている。彼らはそれほど規範的ではなく,むしろ規範に閉じこめられることを嫌い、「仕事熱心」という時期が見られないまま,常態的にやる気のなさを訴えてうつ病を呈する。本稿では彼らを「ディスチミア親和型うつ病」と呼び,従来のメランコリー親和的なうつ病と対比させ,その臨床場面での特徴を整理した。ディスチミア親和型では,抑制よりも倦怠が強く,罪業感とともに疲弊するよりも,漠然とした万能感を保持したまま回避的行動をとる印象がある。本稿では,特に抑うつ症状としての罪業感の変容に着目し,そこに社会文化的に受け継がれてきた役割意識の希薄化と,それに代わって構築された保護的環境での個人主義が影響している可能性を指摘した。
日社精医誌13:129-136,2005
索引用語:ディスチミア親和型うつ病,メランコリー親和型うつ病,罪業感,役割意識

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はじめに

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わが国におけるうつ病に関しては,下田が言及した執着気質,それに近いところでTellenbachのメランコリー性格の影響がこれまで言及されてきた。

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几帳面,仕事熱心,過剰に規範的で秩序を愛し,他者配慮的であるとされるこの気質,性格は,日本人の自己規定に近く,また確かに,わが国のうつ病者の一側面を言い当てているように思われる。

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しかし昨今の,すそ野の広がった日本の精神科一般臨床においては,上記の特徴に合致する一群だけでなく,そうではない群が多く現れ始めたように思われる。

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すなわち,メランコリー性格に代表されるような,几帳面で配慮的であるがゆえに疲弊,消耗してうつ病に陥る人々と,もう一群:もともとそれほど規範的ではをくむしろ規範に閉じこめられることを嫌い、「仕事熱心」という時期が見られないまま常態的にやる気のなさを訴えてうつ病を呈する人々である。後者はより若年層に見られるような印象があり,自責や悲哀よりも,輪郭のはっきりしない抑うつと倦怠を呈する。

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ここで前者を「メランコリア親和型」,後者を「ディスチミア親和型」と呼ぶこととし,その臨床面での特徴を抜き出してみる。

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症例呈示

以下に,両病型の典型像を症例呈示の形で略述する。なお,プライバシー保護の観点から,個人を特定できないように変更を加えている。

症例1:メランコリア親和型,45歳男性
【主訴】不眠,意欲の低下
【家族歴】特記すべきことなし。
【既往歴】これまで精神医学的疾患を指摘されたことはない。
【生活史】もともと真面目な性格で柔道に打ち込みつつ文武両道を目指していたという。大学卒業後,高校の体育教師をしている。生徒指導にも携わり,親身になってくれる教師として人望も厚かった。柔道師範の資格を持ち,勤務先の高校柔道部顧問および所属自治体の代表選手の指導をしていた。既婚,子どもが3人いる。異動も数回経験しているが,特にこれまで問題はなかった。
【現病歴】2003年4月,転勤のため,ある都市部の高校に赴任することになった。これまでの勤務地と異なり,そこは生徒数の多い大規模校であり,教員も生徒も「ビジネスライクで冷めている」ことにいらだつことが多かった。本人としては,休日出勤して部活の指導や研修の準備を進めるのは「教師として当然のこと」と思っていたが,他の同僚はそうではなく,自然に本人の仕事量が増えていった。2003年9月,夏の柔道大会と合宿が終了し,2学期に入ったが徐々に不眠が増強し,早朝覚醒が目立ち始めた。これではいけないと無理して出勤しても,終日ぼんやりしてしまい,気力が湧かなくなった。これでは生徒に申し訳ない,教師として不甲斐ない,このような自分では生徒指導をする資格がない,と悩み始めた。自宅でもため息が多く考え込んでいるため妻も心配するようになり,2003年10月,上記の症状を主訴に,近医総合病院精神科を受診した。DSM̃IVにおける大うつ病エピソードの基準を満たし,うつ病と診断された。

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症例2:ディスチミア親和型,24歳男性
【主訴】やる気が出ない
【家族歴】特記すべきことなし。
【既往歴】これまで精神医学的疾患を指摘されたことはない。
【生活史】長男,姉が1人いる。父親は会社員,母親は専業主婦。中学,高校と特に問題となるようなことはなかったが,嫌いな教師の科目はわざと勉強しないといったことがあったという。大学ではサークル活動とアルバイトを「人並みに」こなしていた。就職活動にはそれほど熱心ではなく,公務員を目指した。大学を卒業後,1年間は公務員試験対策として専門学校に通い,「たまたま受けたら合格した」地方都市の役所に23歳から勤務している。
【現病歴】採用後配属された職場では,仕事は特に嫌ではないが,あまり興味も持てないという。ただ「うるさい上司がいて顔を見るのが嫌だったjので,時々欠勤はしていたとのことである。ただし憂うつで出勤できなかったわけではなく,欠勤中はパチンコに行ったり映画を見に行ったり買い物したりしていた。2002年6月,働き始めて1年が経ち,職場の同僚女性と恋愛結婚した。2003年5月,第1子が生まれた。仕事には相変わらずあまり身が入らず,かといって家にも居づらく,パチンコに行ったり映画を見たりしていた。育児は大変だったが,退職した妻や両家の母親が上手に切り盛りしてくれた。2003年12月,勤務態度を上司に叱責された。これまでにも数回注意はされていたが,今回は非常に厳しい口調だったという。そのあと「体調不良なので」と職場を早退した。本人によれば,その日から夜眠れなくなったという。その後はきちんと出勤したが,職場ではやる気にならず意欲が湧かずイライラし,忘年会や新年会などの職場の集まりにも出る気がしなくなった。パチンコをするときに少し元気は出るが,家に帰ると「おもしろくなくて」再び暗く沈んでしまう。そのため近医精神科クリニックを上記の主訴で受診。DSM-IVにおける大うつ病エピソードの基準を満たし,うつ病と診断された。その場で本人は診断書を希望した。ちなみに,回避性人格障害,分裂病質人格障害および自己愛性人格障害の診断基準は満たしていない。また同席した妻の情報では,早退時の「体調不良」とは異なり,今回の症候に関して特に詐病を疑わせるような所見はなかった。

注1)「ディスチミア親和型」がDSM̃IVのdysthymicdisorderをそのまま指しているわけではない。dysthymic disorderは「大うっ病性エピソードを欠き,少なくとも2年の罹病期間が存在する」ことが前提とされているが,本論で言及するrディスチミア親和型」はもう少し対象範囲は広く,主に治療初期の抑うつ症状における現象面の特徴を指している。

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表1 メランコリア親和型うつ病およびディスチミア親和型うつ病の対比
          
メランコリア親和型
年齢層……中高年層
関連する気質……執着気質(下田)、メランコリー性格(Tellenbach)
病前性格……社会的役割・規範への愛着、規範に対して好意的で同一化、秩序を愛し,配慮的で几帳面、基本的に仕事熱心
症候学的特徴……焦燥と抑制、疲弊と罪業感(申し訳なさの表明)、完遂しかねない“熟慮しだ’自殺企図
治療関係と経過……初期には「うつ病」の診断に抵抗する、その後は,「うつ病」の経験から新たな認知、「無理しない生き方」を身につけ,新たな役割意識となりうる
薬物への反応……多くは良好(病み終える)
認知と行動特性……疾病による行動変化が明らか「課長としての私」から「うつを経験した課長としての私」へ(新たな役割意識の獲得)
予後と環境変化……休養と服薬で全般に軽快しやすい場・環境の変化は両価的である(時に自責的となる)

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ディスチミア親和型
青年層
studentapathy(Walters)
退却傾向(笠原)と無気力
自己自身(役割ぬき)への愛着
規範に対して「ストレス」であると抵抗する
秩序への否定的感情と漠然とした万能感
もともと仕事熱心ではない
不全感と倦怠
回避と他罰的感情(他者への非難)
衝動的な自傷,一方で“軽やかな”自殺企図
初期から「うつ病」の診断に協力的
その後も「うつ症状」の存在確認に終始しがちとなり「うつの文脈」からの離脱が困難,慢性化
多くは部分的効果にとどまる(病み終えない)
どこまでが「生き方」でどこからが「症状経過」か不分明
「(単なる)私」から「うつの私」で固着し,新たな文脈が形成されにくい
休養と服薬のみではしばしば慢性化する
置かれた場・環境の変化で急速に改善することがある

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病型の概括
わが国の「うつ病」の病前性格についてはこれまで,冒頭で記したようにメランコリー性格が特徴であるとされてきた。確かに,中年期以降の患者では「メランコリア親和型」が多くを占める。しかし一方,より若年層(10代から30代)を中心に,この「ディスチミア親和型」に出会う頻度が増加しているように思われる。両病型についての特徴は,表1にまとめた。「ディスチミア親和型」の特徴は,1970年代に指摘されたような退却神経症,あるいは広瀬の逃避型抑うつ引こ近い。しかし,そこで指摘されていた「高学歴の男性に多い」といった特徴は,現在においては目立たないように思われる。むしろこの症候が汎化してしまい,男女比や教育年数は偏りを消失させているような印象がある。この汎化は,生物学的な要因よりも,社会文化的変容による部分が大きいのではないかと思われるが,その点について次項において現時点での試論を呈示する。阿部らの未熟型うつ病については,その発症年齢や性格傾向,依存性と攻撃性の問題など,重なる点が多い。ただし「未熟型」の特徴のひとつとされる「(入院後の)軽躁状態」については,われわれの病型からはまだ明らかではなく,さらに検討の余地があると考える。したがって,「未熟型」の背景とされる双極性スペクトラムに「ディスチミア親和型」を含めることは,現時点では留保したい。少なくとも,われわれの「ディスチミア親和型」が一般精神科外来レベルを中心としているのに対し,阿部らの論では,より重症のレペルに力点が置かれていることは推察できる。

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なお「ディスチミア親和型」において,なんらかの人格障害の存在を想定しうるほどには,彼らの性格的な偏りは強くはない。もちろん場合によっては自己愛的な性格傾向を指摘しうる例もあるが,少なくとも診断基準を満たしうるほどには,病理性は際たっていない。自己愛的側面については,次項後半に触れることになる。

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考察

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本項では,うつ病の代表的な症候である罪業感に着目し,その母体となる「役割意識」の社会文化的変容を追う。その上で,筆者らが仮定した2病型における罪業感の現れの変化を記述する。

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1.役割意識の変容
ここで「役割意識」とは,「○○として××せねばならない」という意識を指し,自己規範とほぽ同義のものとして使用している。図1に示したように,おおまかに5種の役割意識を想定している。これは社会の成員すべてが,なんらかの形で担ってきた文化要因であり,図のような階層構造をとると仮定している。

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図1 役割意識の階層構造

①職業的役割意識:「課長として」「教師として」「○○に勤めている以上」「これが私の仕事だから」②家族的役割意識:「長男(長女)として」「親として」「家のため」
③地域的役割意識:「先輩として」「故郷に錦を」「地域のために」
④宗教的役割意識:「仏教の教えのもとに」「キリストの名のもとに」
⑤民族的役割意識:「日本国民としてJ「アジア人として」図1役割意識の階層構造

上記の役割意識は,わが国において社会の成員が,さまざまな形で担ってきた文化要因である。役割を果たせない場合,罪業感として析出する要素でもある。わが国では,少なくとも1950年以降は④と⑤は希薄であった可能性が高く,もっぱら①~③によって保たれていたと思われる。ちなみに⑤民族的役割意識は一時的に高揚するが1945年の敗戦によって希薄化した。④宗教的役割意識はそれ以前から希薄であった。

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この役割意識は,なんらかの事由で社仝機能が低下し役割を果たせない場合,罪業感として析出する要素であるように思われる。ちなみに②~⑤は,歴史的文化的に構成され伝達されてきた持続的因子であるのに対し(⑤が最も持続時間が長く,②は短い),①は社会・経済的に構築されるー過性の要因にすぎない(例えば退職すれば失われる)。

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わが国における特殊性として,最基底層の⑤および④は,少なくとも20世紀後半においてすでに非常に脆弱な状態を露呈してきたと考えられる。背景には,海に囲まれた地理的特殊性,明治政府成立後の神仏合祀と第二次世界大戦による敗戦,その後の急激な社会変動の影響があげられる。

さらに図2に示したように,1950年代から図1③の地域的役割意識は徐々に衰退し,一時的に「県人会」として都市で再生をみるも,その後再び壊滅する。また同②の家族的役割意識も,核家族化の問題に限らず,父性の弱体化など家族内ヒエラルキーの解体などにより,特に都心部において1980年代までに希薄化してきたように思われる。したがって,わが国における役割意識は,①の職業的役割意識が唯一,一貫して1990年前後までわが国で存続しえたのではないだろうか。

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しかし,その①の母体となるべき経済的成長がプラトーに達し,次第に衰えるにつれて,1990年代あたりから,その役割意識と自己規範も崩れ始めている。また家庭においては,家族内モラトリアムとでもいうべき保護の延長から,子の社会的出立はなし崩し的に遅れているのが実状であろう。社会の競争原理を良くも悪くも体現していだ“会社人間”および“教育ママ”はすべて死語と化し,平坦な無風空間が存在するに過ぎない。家庭内で次代の骨格を構成したのは,「個」の意識,「個」の尊重である。しかしそれはかなり脆弱なものであって,その「個」に当然付随しているべき「自己責任」「自己規範」が巧妙に抜け落ちたままであるように思われる。

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注2)ここではモラトリアムの語を,本来の“猶予期間゛という意味で使用している。「社会に出るべき年齢であるにもかかわらず,家族内で養育され,しかもそれが大きな齟齬をきたさないまま家族内で是認されている状態」といった状態を指す。積極的ではないか消極的に容認しているという意味では「消極的過保護」とさえいいうるかもしれない。

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2.不甲斐なさとしての罪業感
宗教的背景をなす“神”の存在の意識が薄いわが国では,おそらく症状としての罪業感は,図1に示した①~̃③を母体としてきたように思われる。わが国の抑うつで一般的な罪業感は,例えば父親として申し訳ない,課長として申し訳ない,そのような働きができない,といった表明となる。

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「メランコリア親和型」が呈する罪業感は,社仝的役割・地位・役職に付随した規範意識が構築した「不甲斐ない」「申し訳ない」という表明である。それは実存的に罪の意識に苛まれるのではなく,「課長に昇進したのに,この状態では不甲斐ない」「部下に申し訳ない」という,おもに社会面の役割に関する罪の意識である。世代的には,①の職業的役割意識が残存している世代が多い印象がある。

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一方,「ディスチミア親和型」を構成する若い世代では,社会的役割への同一化よりも,自己自身への愛着が優先している印象がある。そして役割意識を母体とした罪業感を一般に呈しにくい。その希薄な役割意識を「うつ病」の診断に補完してもらうかのように,彼らは「うつの役割と文脈」にすぐに沿い,そこからなかなか離脱しない。「がんばれといわれたら傷つく」「うつ病を家族が理解しない」と積極的に表明するのは,主として彼らである。言語化されず葛藤にもならない「いらいら」は,一方では他罰的言動となり,他方では手首への自傷や大量服薬として現出する。彼らの手首の自傷は「いらいらするので」「すっとするために」行うのであって,罪業感に苛まれた末の自殺企図ではない。大量服薬も,最初から死ぬために飲むのではなく,「いらいらするので」酩酊感を求めて過量服用するほうが多いようである。もちろん境界型人格障害の行動化ともニュアンスを異にしている。他者との関係性の問題を基盤にした当てつけではないのである。

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この若い世代では,可能な限り競争原理が被覆された環境のもとで成長した場合が多い。前述のように,すでに競争原理の家庭内への持ち込みもなくなった世代である。その無風空間から何の備えもなく一般社会に出立したとき,実は存在していた競争原理に,彼らはいきなり直面することになる。彼らの神話であった「個の尊厳」は,彼らが期待する形ではそこには存在しない。その意味では,この世代が越えねばならないギャップとしては,この50年間で最も大きくなっているのかもしれない。それに対抗するために彼らがもっているものは,それまで試されることさえないまま保持されてきた,幼い万能感しかないのである。それを守るためには,彼らは自己愛的にならざるをえない。それはもっとも罪業感から遠い症候を構成する。

*用語は笠原先生流。

おわりに

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本稿は,臨床場面での印象をもとにした予備的試論であり,具体的なデータを欠いたままである。しかし,両者の症候学的差異について,どのような社会的要因が関与しているのか考察することには一定の意義があると思われた。

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抑うつ症状の時代的な変容に目を配っておくことは,時代に応じた診断行為の最適化につながるという意味で,価値のある臨床行為である。うつ病への脆弱性を構成する遺伝的素因と行動特性,その社仝文化的変容といった環境要因の相互作用を考えていくとき,おそらく「ディスチミア親和型」への着目は,慢性化した抑うつに関する研究の,重要な一部となっていくと思われる。

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なお,このディスチミア親和型うつ病と,退却神経症や逃避型抑うつおよび未熟型うつ病との関係については,さらに厳密な論考を要すると考えている。

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本稿は2004年10月,神戸市で開催された第18回世界社会精神医学会(同時開催:第24回日本社会精神医学会)において「うつ病の比較文化論:試論」(神庭,樽昧)として発表した内容をもとにした。

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文献1)阿部隆明,大塚公一郎,永野満,ほか:「未熟型うつ病」の臨床精神病理学的検討一構造力動諭(W.Janzarik)からみたうつ病の病前性格と臨床像.臨床精神病理16:239-248,1995
2)広瀬徹也:「逃避型抑うつ」について.(宮本忠雄編)躁うつ病の精神病理vo12,61-86,弘文堂,東京,1977
3)神庭重信,平野雅巳,大野裕:病前性格は気分障害の発症規定因子か:性格の行動遺伝学的研究.精神医学42:481-489,2000
4)笠原嘉:現代の神経症-とくに神経症性apathy(仮称)について.臨床精神医学2(2)153-162,1973
5)笠原嘉:アパシー・シンドローム:高学歴社会の青年心理.岩波書店,東京,1984
6)下田光造:精神衛生講話.同文書院,pp.85-87,東京,1957
7)Tellenbach,H.:Melancholie(木村敏訳:メランコリー).みすず書房,東京,1985

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