近親相姦タブーが重要であるわけ 2008

近親相姦タブーが重要であるわけ 2008

フロイトが初期に言ったことは世間を驚かせた。
無意識とか
性的欲望の抑圧とか
近親相姦のタブー、エディプス・コンプレックス、
口唇期、肛門期、性器期など。

後半期のフロイトはとっても難しくなり、弟子たちはさらに思弁的になっていくのだが、
初期のフロイトは生物学的な開業医だから
分かりにくいことはない。

ダムのモデルとか、抑圧のモデルとか、水力学のイメージで、とてもくっきりしている。
現代の脳科学はその実質を明らかにしつつある。

その中で近親相姦のタブーであるが、
まず、最近の研究で、人類の始まりは一人の女性、ルーシーだったのではないかといわれていて、
そのあたりは具体的にどの人というのは難しいとしても、
多分、複数の人が同時に人類の特徴を備えたはずはなくて、始まりの人がいただろう。
どこから始まりとはいえないとしても、
このあたりから徐々にとはいえるわけだ。

そう考えると、しばらくの間は、その種の優位性を継続するため、拡散させないために、
近親相姦が必要だったのではないかと考えられる。

人類の始まりまで遡らないまでも、
自分から起算して、2の累乗を考えると、祖先の大部分は親戚同士でなければならないことになる。

いずれにしても、独自の形質を保存するため、また、財産を散逸させないため、
近親相姦はありうることだったはずだ。
それが、近親婚は奇形や流産の割合が高いといわれ始めて、
考えを変えたのだろう。

人類の初期の段階では、サルとセックスをするよりも、近親相姦のほうが利益があった。
人類の後期に至ると、近親相姦を禁止したほうが利益があった。

文化人類学で「交換」の様態を観察すると、大切な贈り物の中に女性は必ず入る。

戦争で男は捕虜になり女は遺伝子資源になる。

その頃になるともう、なるべく遠い遺伝子を求める傾向が顕著になる。

しかし人類の最初に、遠い遺伝子を求めることは有利なことではなかった。

だから、脳の記憶の中で、そのころの記憶は、あいまいで、出来れば忘れたいのだが、
ときどき蘇るのだろう。

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またたとえば、言語であるが、
現在ある種々の言語は、始まりの時点では一つのもので、
それが各地に分かれて、独自の方向に行ったのだろうと思われる。
すべての言語は方言であるということになる。

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これをクロスさせて考えると、
言葉を話すということは人間であるということで、
セックスしていいということだ。
そして違う言語を話すということは、
遺伝子的に遠いということで、
これは種の進化にとってはとてもよいことだ。
だから、違う言葉を話す人というのは、
セックスの対象として好ましいのである。

しかし一方で、その後の家庭生活とか、財産問題とか、親戚づきあいとか、
いろいろ考えると、同じ言葉を話す仲間の方が安心できる。

これは拡大された近親相姦なのである。

近親相姦のタブーが有効である範囲がどのようにして決まるのかといえば、
異種交配による新しい形質の獲得と、近親相姦による劣性遺伝子の発現と、
そのバランスと、家族や財産、つまり社会の側の問題と、その兼ね合いということになる。
ある時点で近親相姦の利益は近親相姦の不利益に負ける。

以上から推論すると、ある時点で、日本人同士の結婚は、不利益の方が大きくなるだろうと思う。
日本語を話す人同士の結婚は近親相姦の拡大だからだ。

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